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 2章


 さて……と、いったいこれからどうなっちまうのかね。
 退屈な授業の合間、教師の熱弁を聞き流しながら俺が考えていたのは……やはりというか朝
倉の事だった。
 突如自分の部屋に現れた居候、実はその正体は宇宙人である。
 ……漫画やアニメといった空想の世界ではありふれたこの設定だが、まさか自分がそんな立
場に置かれる事になるとはなぁ。
 一人で抱えるには重すぎる悩みだけに誰かに相談したいが……事情が事情だけに、今回ばか
りは長門を頼る訳にはいかないらしい。
 ノートの端に長門の名前を書き、俺はその横に小さくペケマークを書いた。
 ついでに浮かんだきた名前を適当に書き続けながら、他の当てを考えてみる。
 ハルヒ? そもそもあいつは俺がそんな事を言っても信じるはずもないし、例え信じたとし
てもハルヒが関わる事になれば長門にも自然と知られる事になるよな……そうでなくても、予
想外の方向に問題が飛躍するのが目に見える様だ。
 古泉、あいつなら秘密は守れそうだよな。実際頼りにもなりそうだとは思うし、この手の事
には適任な気もする……でもあいつに手助けしてもらうと後々面倒な事になる気がするんだよ
な……ふむ、となると俺の選択肢は一つしか残っていないな。
 ハルヒと古泉の名前の横にペケマークを入れた後、俺は残った一つの名前に丸を付けた。
「いいかーここ、次のテストに出すからなー」
 至極論理的な思考の結果辿り着いた結論に満足した俺は、意味も解っていない黒板に書かれ
た白い文字を、教師に言われるままノートに書き写し始めた。


「そ、それって本当の話なんですか?」
「ええまあ、何て言うか……残念ながら。はい」
 放課後、ハルヒ達が帰った部室の中「折り入って相談したい事があるんですが」とお願いし
て部室に残ってもらった朝比奈さんは、俺から聞いた話の内容に可愛らしい瞳を丸くしていた。
 流石に何もかも全部本当の事を伝えるのはまずいと思い、朝倉の名前や事情は出さず「今俺
の部屋に事情があって名前を言えない居候が居て、そいつは俺と同い年の女子なんです」とだ
け伝えたんだが……。
 朝比奈さんは、何故かその愛らしい顔を寂しそうに曇らせ、
「あの……もしかしてその人って。……キョンくんの……か、彼女さんなんですか?」
 そんな見当外れの事を仰るのだった。
 いやいやいやいやいやいや。
「それは無いです」
 はい、マジで無いです。
 真面目な顔で全力で否定する俺を暫く見つめた後、朝比奈さんは小さく息をついてから笑顔
を取り戻してくれた。
 ふぅ……危なく俺のオアシスが砂漠化する所だったぜ。気をつけろ? 地球温暖化。
「まあ、そいつは携帯で知り合った見も知らぬ相手とか、そんなんじゃないのは確かなんです
が……色々事情があって、昼間は外を出歩けないんです」
「ご両親が探しているとかですか?」
 まあ、そんな感じですね。
 かなりいい線いってます。
「それで、正直一人で抱えるにはちょっと重い内容だったから、相談というか誰かに話を聞い
てほしかったんですが……ご迷惑でしたか?」
「そんな! 話の内容にはちょっとびっくりしちゃったけど、キョンくんに相談してもらえて
嬉しかったです」
 ほんのりと顔を赤らめ、俯く彼女を前に俺は心の中で自分の選択肢に間違いが無かった事を
確信していた。
 朝比奈さんの女神の様な笑顔を見れただけで、俺の悩みは8割方解決した様な物です!
 ある意味目的を完全に達成し、幸せ気分で一杯だった俺なのだが、
「でも、きっとその人今困ってると思います」
 何故か朝比奈さんは真面目な顔で何かを考えている様だ。
 困ってる……って、どんな意味なんですか?
 どちらかと言えば俺の方が困ってるような気もするんですが。
「その人って、キョンくんと同い年の女の子なんですよね?」
 ええまあ。
 多分、そのはずです。
 疑問を顔に浮かべる俺に、朝比奈さんは何故か言葉を濁しつつ
「あのね? えっと……その……。これから……ちょっとお買い物に付き合ってもらえません
か?」
 困り顔で俺にそう聞いてくるのだった。
 その買い物ってのと、居候が俺と同年代って事に何の関連性があるのか俺にはさっぱりだっ
たのだが、俺が朝比奈さんへ答える返事には何の問題もありはしない。


 ――もしかして、朝倉はもう部屋に居ないんじゃ?
 その日の夕方、いつもより遅い時間に家に帰ってきた俺は、特に根拠も無くそんな事を考え
ながら自室のドアを開け
「あ、おかえり。今日は遅かったね?」
 部屋の中で俺を待っていた朝倉の顔を見て、思わず俺が安堵の息をついたのは……多分、何
となくだろう。
 昨日の寝る前と同じ服装でベットに寝ころび、完全に寛いだ様子でお菓子を片手に漫画を広
げていた宇宙人に
「今日はちょっと寄る所があってな。ほれ、土産だ」
 そう前置いてから、俺は鞄の中に入れていた紙袋を手渡してやった。
 ちなみに、ベットの上に寝転ぶ朝倉の周りには主に少年誌に掲載されている漫画の単行本が
所狭しと展開していた……こいつ、本当に長門同じ宇宙人なんだよな……?
「えっ本当にお土産? やったぁ! 開けてもいい?」
 好きにしろ。
 鞄を下ろして固くなっていた肩を回し、CDプレーヤーの電源を入れたりしていると
「……あの、これって凄く助かるんだけど。まさか、あなたが……買ってきてくれたの?」
 袋の中に入っていた薄手の生地で作られた可愛い装飾の……通俗的な用語で言えば、女性用
下着を手に、複雑そうな顔で朝倉が俺を見ていた。
 俺にそんな度胸はない。っていうか袋にしまえ、俺に見せるな、広げるな、ひっぱるな。
 それ以外に入ってる物に至っては袋から取りだすな。
「お前、朝比奈さんって知ってるか」
「朝比奈さん……あの、未来人の女の子の事?」
 そこまで知ってるのなら話は早いな。
「その朝比奈さんにお前の事を相談したら、昼間外に出れないのならきっと困ってるだろうっ
て色々と揃えてくれたんだよ。ああ、お前の事は名前は伏せて家出少女Aって事にしてあるし、
朝比奈さんは秘密を守れる人だから安心していいぞ」
 なんせ相手は天使様だからな、俺みたいな俗物なんかよりずっと信用できる。
「……そうだったんだ……ありがとう」
 俺に礼はいらん、それより朝比奈さんに感謝しろ。
「うん」
「他にも何か要る物があって困ってたら言えよ?」
 俺としても、公的な理由で朝比奈さんと一緒に買い物ができるチャンスにもなるしな。
「うん。でも本当にありがとう……何かお礼をしなきゃね」
「朝比奈さんにか?」
「あなたによ。あたしはこんな状態だから朝比奈さんには会えっこないもの」
 まあそれはそうだが。
「遠慮しておく、特にやってほしい事もないしな」
 俺は殆ど何もしてないんだし、お前に貸しを作ると古泉以上に不吉な予感がする。
「そう? じゃあ何かして欲しい事が出来たら、その時は言ってね?」
「そうするよ」
 ま、何も無いとは思うけどな。


「あ、もしかしてお風呂に行くの?」
 そのつもりだが。
 着替えを手に部屋を出ようとしていた俺を見た朝倉は……何故か自分も、今日朝比奈さんに
買ってもらった――支払は俺だが――下着や着替えを手に俺の後ろについてきた。
 鼻歌混じりでご機嫌なのはいいとして、
「……朝倉、お前今からどこへ行くつもりだ」
 いや、聞かなくても返答はだいたい解るんだが……。
「お風呂よ」
 やっぱりか。
「じゃあ先に行ってこい」
 レディーファーストって訳じゃないが、俺には突然部屋に現われた宇宙人と一緒に風呂に入
る習慣は無い。
 後ろで待つ朝倉に先に行くよう手で指し示してやると、
「え〜。でも、一人だと誰かが来た時に困るじゃない」
「例の何とかフィールドじゃ駄目なのか?」
 音も聞こえなければ、姿も見えないんだろ?
「誰も入ってないはずなのに、脱衣所に鍵がかかってたら変でしょ?」
 ……確かに。
「それに、あたしは鍵をかけなくても別に気にしないけど。開いてるからって誰かが入ってき
ちゃったらそれはそれで困るじゃない」
 一人で入れないってのは、まあ解ったさ。
「でもだからって一緒に入る訳にはいかないだろ」
 他の方法を考えようぜ?
「どうして?」
 いや、どうしてって……お前。
「最初にも言ったけど、あたしはキョンくんなら気にしないよ」
 そうか、俺は気にするんだ。見解の相違だな。
 苦い顔をする俺を不思議そうな顔で見る朝倉には、どうやら羞恥心という概念が無いらしい。
 入学早々の頃、教室でハルヒが男子の前で着替えをするのを止めてた朝倉はいったい何処へ
いっちまったんだ……? カナダ辺りを旅行中だってんなら、早々に帰国して頂きたい。


 ――とはいえ「そんなぁ……ずっとお風呂に入れないなんて……」等と悲しげな振りをする
朝倉に負けたというか、冬ならばともかく湿度の高いこの時期に流石にシャワー無しは可哀そ
うだと思った訳で
「……ねえ、やっぱり一緒に入った方が早くない?」
「浴室の戸を開けたら家から叩き出されると思え」
 俺は今、洗面所で待つ朝倉に注意を払いながらシャワーを浴びている。
 結局俺達が選んだ入浴方法はといえば、脱衣所までは一緒に入り、後は交替でシャワーを浴
びるという内容だった。
 問題は、浴室から見える朝倉のシルエットだな。
 俺が出るまで服を着たまま待つように厳命してはあるのだが、何やら興味深そうにこちらを
眺めている朝倉の姿に気が散って仕方がない。
「あ、そうだ。背中流してあげようか」
 結構だ。
「じゃあ交替で流しっこしよう?」
 お断りだ。
「ちぇ〜……シャンプーしてあげようか?」
 ノーサンキュー。
「……なんか暑いね、ここ。やっぱり脱いで待ってても」
 我慢しなさい!
 ええい、お前はよく喋る宇宙人だな本当に!
 のんびりする間もなく体を洗い終えた俺は、あらかじめ持ち込んでおいたバスタオルを腰に
しっかりと巻いてから脱衣所に戻った。
「お先……って、何だその目は、何で残念そうな顔をしてるんだお前は」
「別に? じゃあ、ちょっと待っててね」
 あいよ。
 俺は朝倉に着替える場所を譲ると、急いで目を閉じて耳を塞いだ。
「――あ〜暑かった〜……あっ! ずるいっ!」
 何がずるいだ、何が。
 ……朝倉が次はどんな行動に出るか解ってきてしまっている自分が、少し悲しい。
 それから暫くして――浴室の扉が開かれる音が響き、暖かく湿った空気が流れ込んで来たか
と思うとすぐに扉は閉まった。
 どうやら、朝倉は浴室に入ったみたいだな。
 念の為、シャワーの音が聞こえてきてからそっと薄目を開いてみると……大人しく浴室に入
ったらしく、脱衣所に朝倉の姿は無かった。
 やれやれ、何で風呂に入るだけでこんなに疲れなきゃならんのだろうなぁ……ああ、自業自
得だったっけ。
 まあいい、とりあえず朝倉が戻る前に着替えておかないと。
 浴室に入れておいたせいで湿ってしまっていたバスタオルで体を拭き、溜息混じりに着替え
ていると
「キョ〜ンくん。ちょっとだけなら覗いてもいいよ?」
 浴室から聞こえる嬉しそうな声に、俺は無言のまま照明のスイッチを切ってやっ「きゃぁ!」


 ――とまあそんな感じで、家の妹を精神年齢そのままに成長させたような朝倉との共同生活
は、俺の精神を着実に擦り減らしながらその後も続いていた。
 学校ではハルヒ、家では朝倉。
 さて、いったい俺はどこで休めばいいんだろうなぁ……と世の不条理を嘆いていると、
「最近のキョンって何だか楽しそうだよね。もしかして彼女とかできたの?」
 何故か国木田にはそんな事を言われるのだった。きっと勉強のし過ぎで視力が落ちてきてい
るんだろうなぁ、可哀そうに。
 不幸な同級生に哀れみの視線を送りつつ、俺は自分の視力を維持する為、今日もまた教師の
言葉を子守唄に――いてっ!
「おい、今は授業中だぞ。せめて隠れて寝る努力をしろ」
 ……すんません。
 クラス中から感じる視線に恥ずかしさを感じつつ、俺は教科書で顔を隠した。
 岡部の気配が教壇の方へ遠ざかって行った頃
「ちょっとキョン」
 声と同時に背中に走るノックが二回、シャーペンは止めろ。
「何か用か、岡部に目をつけられてるんだから手短に頼む」
 岡部の動向を気にしつつ耳を傾けると、
「あんたねえ、授業中に寝るのは別にいいけど」
 いいのかよ。
「明日の集合時間にはちゃんと間に合うように来なさいよ? 寝過した、なんて言い訳は許さ
ないからね」
 へいへい。
 そう言えばそんな事もあったっけな。
 呆れ顔のハルヒから視線を前に戻しつつ、俺はすっかり忘れていた明日の予定をノートの端
に書きとめておいた。こうしておけば、少しは深く記憶に刻まれるかもしれない。
 それにしても……やらなくていい事をばかりよく見つけてくるもんだ。俺としては、休日の
無駄遣いは遠慮したいんだがね。 


 六月の半ばを過ぎ、朝倉の居候開始から一週間が過ぎたその日も、思念体とやらからの連絡
は無かったそうだ。
 俺には宇宙人の事情ってのは解らないんだが、朝倉はその事にかなり驚いているらしい。
「だってありえないもの。いくつかの意志があるにしろ、情報統合思念体があたし一人の処遇
を決めるのにこんなに時間がかかるな……あ、そこ違うよ? そこは先にAを代入しないと解
けないの」
 ん、ああここか。
 ノートを広げた机に向かう俺の隣、押し入れかどこかから持ってきたらしい椅子に座った朝
倉は、ノートの上にシャープペンシルを走らせる。
「ほらここ。ちょっと解りにくいかもしれないけど、ここを先に解かないと答えが出ないのよ」
 ……ん、ああなるほどな。
 朝倉の書いた数式を当てはめながら、俺はその日最後の問題に答えを書き記した。
 ノートの端に、何か時間と場所が走り書きしてある様な気がするが……眠い時に書いた字な
のか読み取れない。
 っく……あぁ……。肩が凝った。
「お疲れ様、今日はずいぶん頑張ったね」
 まあな。
「明日は休みだし提出期日も迫ってたんだ、この課題。正直助かったよ」
 一人で解いてたら、解らない所は適当に書いて再提出が関の山だっただろうな。ここまで自
信のある回答で埋まった課題は初めてかもしれん。
「どういたしまして」
 俺の隣でくすぐったそうに笑う朝倉。
 ――そんな朝倉に勉強を教えてもらうのは、もうこれで何度目だろうか?
 最初は、宿題に頭を悩ませている俺を見かねた朝倉が仕方なく問題を解決するヒントを出し
てくれたのが始まりだった。
 朝倉は元々クラスでも一二を争う優等生だっただけの事はあり、授業を受けなくなった今で
すら俺に勉強を教えるなど造作もない事らしい。
 そのおかげで、最近は授業の内容の意味も解るようになってきた気がするくらいなんだから
本当に大したもんだよ。
 ――それと、勉強中は朝倉がからかってこないのもありがたい。
「ん〜……でも、そろそろ基本だけで教えるのは厳しくなってきてるなぁ」
 そうなのか?
 俺には全然そうは見えないが。
「うん。……そうね、まだ暫くお世話になりそうだし。キョンくんの教科書を借りて、あたし
ももう一度勉強してみようかな」
 そうかい、そいつは勉強熱心で結構な事だ。
 俺には一生理解できない発想だけどな……お、もう22時か、そろそろ大丈夫な時間だろ。
 ノートと教科書を鞄にしまい、
「じゃ、そろそろ行くか?」
 隣でじっと何かを待ちわびていた朝倉に、俺はそう呼びかけた。


 交換条件――
 さっきも言ったが、以前たまたま俺が宿題で苦労していた所を助けてくれた朝倉は、その代
償として俺に一つ頼み事をした。
「でもいいのか? こんな事で」
「もちろん!」
 俺に腕を絡ませ、理由は解らないが嬉しそうにして隣を歩く朝倉。
 この宇宙人が勉強を教える代償に俺に要求したのは、食料の買出しの為に深夜のコンビニへ
付き合う事だった。
 その後も朝倉の要求内容は変わる事もなく、最近ではもう俺から何がいいのかと聞く事もな
くなっている。
 ちなみに、何故朝倉が俺の腕に自分の腕を絡ませているかと言えば、その方がフィールドを
狭く出来るので力を使わずに済むらしい。
 なるほど、さっぱり解らん。
 ついでにどうして俺と一緒にコンビニへ行きたいのかと言えば、
「だって、一人じゃつまらないんだもん」
 口を尖らせる朝倉の言い分は、まあ解らなくもないんだけどな。
「あ、ほら! 猫が居る!」
 そうだな。
 塀の上で座っていた老猫は、朝倉に指差されても逃げようとせず平然とした顔でこちらを見
ている。
「不思議ね……何でこんな時間に起きてるのかしら」
 俺達もだろ。
「ん〜それもそうね」
 ところで朝倉。
「なに?」
 お前、昼間はいったい何をして過ごしてるんだ?
 部屋にある漫画や前に渡した雑誌にしても、そう何度も読んで面白い物じゃないだろうし。
「携帯で遊んでるよ」
 携帯?
「うん。今は色んなゲームが携帯で遊べるの、知ってた?」
 いーや。
 通話とメール以外の機能は殆ど解らん。
「もったいないなぁ。せっかくの機能、活かさなきゃ損だよ」
 そうかい。
「まあ本当は殆ど寝てばっかりなんだけどね。一人で遊んでてもすぐに飽きちゃうし」
 そいつは何とも羨ましいね。
 出来るんなら一日くらい代わってやりたいくらいだ。
 ――そんなとりとめとない会話をしながら片道15分程かかるコンビニまでの道を歩き、そ
して朝倉の買い物が終わるまで雑誌の立ち読みをしてから家に帰る。
 殆ど毎日の様に繰り返してきたその日常の中、俺はきっと油断していたんだろう。
 誰かが自分のすぐ後ろに立っている感覚に、俺と朝倉以外には店内に客が居ないと思い込ん
で居た俺は振り向く前に口を開いていて――
「もう買い物は済ん……だ」
 透明度が高過ぎて、遥か遠くにある海底まで見えてしまう様な深い瞳。
「……」
 無言のまま俺を見つめていた長門の姿に、俺は言葉を無くしていた。
 ま、まずは落ち着け。
 確かにここには朝倉も来てはいるが、その姿は長門には見えないはずだ。何も気になる事が
なければ、長門だってこんなコンビニを詳しく調べたりしないだろう。
 ばれない様に気をつけながら深呼吸した後、俺は口を開いた。
「よ、よう」
「……」
 大丈夫。長門が基本無反応なのはいつもの事だ、落ち着け。
「買い物か?」
「そう」
 そうか、そうだよな。ここはコンビニだし……えっと。
 普段、見慣れたはずの同級生の静かな視線が俺を焦らせる。
 視線だけで朝倉を探そうかとも思ったが、長門にはそれだけで気づかれてしまいそうな気が
して俺は長門から視線を動かせなかった。
 とはいえ何と話しかけていいのか迷っていると、
「……いいの」
 え、あ、何がだ?
「明日」
「明日? ……あ、ああそうか」
 そういえば、明日はハルヒが勝手に申し込みやがった野球大会に出なくちゃならんのだった
な……授業中にノートに書いたってのに忘れてたぜ。それもあって、確か古泉に今日は早く寝
るって部室で言った覚えがある。
 多分、長門はそれを覚えていたんだろう。
 見れば長門の手には清算済みらしいレジ袋があり、その中には明日の朝食なのかサンドイッ
チが一つ入っていた。
 この場を切り抜ける話題が思いついた俺は、開いたままになっていた雑誌を棚にしまった。
「明日に備えてそろそろ帰って寝る事にするよ。長門、お前ももう帰るのか」
「帰る」
「こんな時間だが、一人で帰れるか?」
 まあ、そもそもここまで一人で来れたんだし、地球上のどこを探したってお前に危険な道な
んてないんだろうけどさ。
 なんとなくだった俺の問いかけに、
「……帰れる」
 普段の反応より少しだけ遅れて、長門はそう答えた。
「そっか、じゃあまた明日な」
 軽く頷いて俺の顔をじっと眺めた後、長門は俺を残してコンビニから去って行った。
 なんとか、やり過ごせたみたいだな……。
 でも何でここに長門が居たんだろう? あいつの住んでるマンションからここまでは結構遠
いし、それに途中にもコンビニくらいあったと思うんだが。
 長門の小柄な姿が見えなくなってから数分後、
「……ふぅ、びっくりした」
 何事も無かった様な口調で、朝倉がトイレから出てきた。
 朝倉、お前まさかずっとトイレに居たのか。
「まさか。……実は長門さんが来てる事にあたしも気づいてなくって、キョンくんに話かけよ
うと思って後ろまで来た時に気づいちゃったから動くに動けなかったの。だから、長門さんが
帰ってくれるまで、あたしもずっとあなた達の隣に居たのよ」
 俺以上に緊張状態だったのか、朝倉の顔色はあまりよくない。
「じゃあ何でトイレから出てきたんだ?」
 別にどうでもいいが。
「それはただ、鏡を見てきただけ」
 そう言いきるものの、青ざめた顔の朝倉には、いつもの人をからかう様な余裕は感じられな
かった。
 しかし、驚いたな。
 まさかこんな時間に長門とコンビニで会う事になるとは、しかもよりによって朝倉と一緒に
居る時に。
 これは、やはり
「なあ、ひょっとして長門は何か気付いているのか?」
「……ん〜……それは無いと思うな。もしそうなら、ここで何も行動に出なかった理由が説明
出来ないもの」
 と言いながらも、朝倉もただの偶然にしては出来過ぎていると思っているのか、真面目な顔
で何かを考えている。
 その内、何かを思いついたのか朝倉は自分の前で手を叩き
「あ、ごめん。明日は朝早いんだよね?」
 ん? ああ、まあそうだが。
 正直、野球の件は長門に言われるまで忘れていた。
「じゃあ急いで帰ろう?」
 いや、別にそこまで急ぐ必要は――朝倉? 慌てて俺の手を引く朝倉に連れられて、俺はコ
ンビニを後にした。


 翌日――ハルヒの思いつきよって草野球大会に参加する事になってしまった俺は、早々と試
合を終わらせて休日の無駄を少しでも省こうと考え、我が家の誇る対陸上競技用最終――最も
早く終わらせてくれる――兵器「妹」を連れて球場へと向かったのだが……。
「え、ホームランを打ったの? 凄〜い! あたしも見たかったな〜」
 まあ、一応な。
 結果はといえば、1回戦を勝ち抜いて2回戦進出を辞退、SOS団初の野球参加は俺の奢り
のファミレスによって無事に幕を下ろした。
 俺から今日の出来事を興味深そうに聞く朝倉は、昨日の事があったせいか今日は妙に大人し
く見える。
 いつもみたいにふざけてからかったりもしてこないし……時折、何かを考えるように遠くを
見つめていたりする事も。
 朝倉の悩み、それはやはり……長門の事なんだろうな。
「……なあ朝倉、話は変わるんだが」
「えっなあに?」
 楽しそうな所悪いが。
「長門の事だ」
「……うん」
 長門の名前を聞くだけで怖いのか、朝倉は急に身を固くした。
 そこまで怯える事は無いと思うんだが……まあいい。
「お前を消したりしない様、俺から長門に頼んでやろうか? 危険は無いって事を説明すれば
きっと解ってくれると思うぞ」
 お前はそうは思わないかもしれないが、多分これは確実なはずだ。
「あ……うん」
 俺から視線を逸らして俯く朝倉は、長門を説得する事に乗り気では無いようだ。
 一度は本気で戦った相手だけに、まだわだかまりがあるんだろうか? 二人とも、そんな人
間的な感情とは縁遠い存在だと思ってたが。
 普段よく喋る朝倉だけに、こうして静かに俯いている姿は珍しい。
 ――朝倉が長門に対してここまで恐怖心を抱く理由、それはいったい何なのだろう? 確か
に俺が殺されそうになった時、朝倉は長門によって光の粒に変えられたさ。
 でも昨日の夜コンビニで偶然会った時、朝倉は長門に見つからずに済んだ。
 つまり、例え勝つ事は出来ない相手だとしても、だ。朝倉から見て長門は逃げようと思えば
逃げられない相手じゃないんだと俺は思うんだが……だめだ、憶測の域を出ない。
 これ以上考えても、ただの人間でしかない俺には答えは出ないだろう。
 そして、それはまだ俯いたままでいる朝倉も同じらしく……どうやら、あまりこの話題を口
にして欲しくないみたいだ。
 やれやれ、宇宙人に気を使う地球人なんて俺以外にも居るのかね? 
「朝倉」
「……う、うん」
「今日は買出しはどうするんだ? もうすぐ22時だし、コンビニへ行くなら付き合うぞ」
 家庭教師は今日はお休みだったが、一人で行くのは不安だろう。
 話題が変わった事に気付いた朝倉は、弱弱しいながらも笑顔を取り戻した。
「ん〜……ありがとう、でも今日はやめておこうかな」
 そうかい。
 まあ、その方がいいかもしれんな。
 俺はクローゼットの中から適当に上着を取り出し、机の上に置いたままだった財布をポケッ
トの中へ入れた。
「こんな時間にどこかへ出かけるの?」
「ああ、ちょっとコンビニまでな」
「えっ?」
 っていうか、毎日この時間にコンビニに行ってるお前が何を驚いた顔をしてるんだ。
「何か要るものがあれば買ってきてやってもいいぞ」
「で、でもお店まで結構遠いし。荷物になるだろうから」
 俺の買い物のついでだぜ? お前が気にする事はないんだが……そうだな、やられぱなしっ
てのも何だし、たまには俺にもからかわせてもらおうじゃないか。
「……意外だな。お前に遠慮って概念が理解できるとは驚きだ」
「なっ何よその言い方〜」
 落ち込んでいた顔が驚きに変わり、その後朝倉は頬を膨らませる。
「怒る元気があるならさっさと言えって。じゃないと、お前の明日の食事は昆布のおにぎり2
つで確定する事になるぞ」
 っていうか朝倉、お前が怒る所を見たのって初めてだと思うんだが……意外と子供っぽい顔
で怒るんだな。
 それはハルヒ相手にクラス委員として怒っていた時とは違い、もっと人間らしい自然で親し
げな顔だった。
 朝倉の見慣れないその表情に、口角が上がろうとするのを堪える事十数秒。
「……エビマヨネーズのおにぎりを、2つお願いします」
 横を向いたまま、朝倉はそう注文した。
 ふむ。意外と膨れっ面が似合うんだな、お前。
「そうか、じゃあ後はハムとチーズのサンドイッチ一つにミルクプリン一つ。シュークリーム
が2つにショートーケーキが1つ。飲み物は果汁100%の林檎ジュースでいいんだな?」
 聞くまでもない、朝倉の買い物内容は毎日同じ内容なんだ。
「……はい。お願いします」
 最初っから素直にそう言えばいい。


 朝倉と一緒に通っていた時はそれ程気にならなかったコンビニまでの道だったが、こうして
一人で歩いてみると……なんていうか退屈だな。
 人通りも無くただ自分の足音だけが響く住宅街には見るべき物も特になく、俺は光を求めて
盲進する蛾の様に、ただコンビニへと向かって足を進めていた。
 う〜寒い……。
 もう初夏を過ぎたはずなのに今日は結構冷えやがる。
 っていうか、昨日まではそう寒くなかったと思うんだが――あ、そうか。今日は隣に朝倉が
居ないから寒いのか。
 この道を通る時、いつも俺に腕を絡ませて笑っていた朝倉。
 あいつが居ないおかげで、今日は歩きやすいし、静かで……えっと。
 その後に続いた思いを何となく形にしないでいる内に、通りの先に光を放つ店舗の姿が見え
てきた。


「いらっしゃいませー」
 深夜にしては元気のいい店員さんだ、もしかして今起きた所なんだろうか?
 そんなどうでもいい事を考えながらレジの前を通り過ぎ、食品コーナーで目的の商品をカゴ
に入れて会計を済ませる――その間約5分。
 さて、朝倉はどうしてこれだけの作業にいつも時間がかかっていたんだろうな……長門が言
うには朝倉はとても優秀な奴のはずなんだが。
 買い物を終え、膨らみを増したレジ袋を手に店から出ようとした時、
「よっ。今日も買い物か」
 雑誌コーナーの週刊誌が並ぶ一角、昨日俺が立っていたのと同じ場所に立ち、本を広げてい
る長門の姿があった。
「……」
 無言のまま首を横に振るって事は、
「買い物じゃないのか?」
「そう」
 って事は……ああ、立ち読みか。
 見れば長門が読んでいるのは、昨日俺が読んでいた週刊発行の少年誌だった。
 解る、解るぜ長門。人が読んでる本って何故か妙に気になるもんな。
 ちょうど読み終えた所だったのか長門は雑誌を閉じて棚へと戻し、そのまま出口に向かう事
も無く、じっと俺の顔を見つめている。
 その顔はまるで俺に……えっと……多分……駄目だ、やっぱり全然解らん。
 朝倉と同じ宇宙人だってのに、何でこんなに違うんだ?
「もう帰るのか」
「帰る」
「そうかい」
 聞くだけ無駄、それは解ってるさ。でもこの寡黙な少女の姿を見て
「一人で帰れるか?」
 俺がそう尋ねるのはある意味規定事項で、長門がその問いかけに
「……送って欲しい」
 こう答えるのもまた、規定事――えっ? 長門、お前今何て言った?


 この銀河を統括する統合思念体が創った、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインタ
ーフェース。解り易く言えば宇宙人。
 1ダース程の槍に貫かれても死ぬ事は無く、本気になればオリンピック選手も目じゃない跳
躍でも平気でやってのけ、何でも知ってて何事にも動じない、文字通りの意味で万能な元、文
芸部員。
 そんな無敵の存在を、特に取り柄も無いただの高校生であるこの俺が、コンビニからマンシ
ョンまでの帰りという特に治安も悪くないこの道を付き添う理由は何なのか?
「……」
 その答えが解らないまま、俺は長門と一緒に夜の道を歩いていた。
 静かな夜道に響くのは時折踵を引きずる俺の足音と、規則正しい長門の小さな足音だけ。
 俺が話しかけない限り無言でいると言っても過言ではない長門なだけに、俺達の間には特に
会話らしい会話は無い。
 せいぜいあった会話といえば、
「最近、暑くなってきたよな」
 無言のまま首肯。
「もうすぐ夏だな。長門は夏と冬だとどっちが好きなんだ?」
「質問の意味が解らない」
「じゃあ、どっちが過ごしやすいと思う?」
「差異が感じられない」
「……そいつは何とも羨ましいね」
 会話じゃないな、これ。
 長門が俺と一緒に帰ろうとした理由、それを聞けば少しは話も弾んだのかもしれないが、
「……」
 ただ歩いているだけで何も面白い事なんて無いはずなのに、普段よりほんの僅かだけ口の端
が緩んでいる様に見える長門の表情に、俺は何故かその事を聞く気になれなかった。
 ……もしかしたら、長門も朝倉と同じ様に一人でコンビニまでの距離を歩くのが退屈だった
のかもしれないな。
 それか、昨日俺が送るって言ったから何度も断るのは悪いと思ったのかもしれない。
 そんな暫定的な結論を導き出す頃には、俺達は長門の住むマンションの前に辿り着いていた。
 ふぅ……自転車ならともかく、歩くと結構な距離だな。
 っていうか、1人なのに何で自転車で来なかったんだ? 俺。
 照明がついたままになっているマンションの入り口に辿り着いた所で、
「ありがとう」
「別に、気にする程の事じゃない」
 お前と二人っきりってのも、中々できない体験だ。
「じゃあ、またな」
「……」
 小さく頷いてマンションの中へと入っていく長門、その姿が通路の先に見えなくなったのを
見届けてから、俺は長門と今来た道を引き返して行った。


 ようやく俺が家に辿り着いたのは、すでに日付が変わった後だった。
 リビングの電気が消えている所を見ると、もう家族はみんな眠っているらしい。音を立てな
い様に気を使って階段を上り、自分の部屋のドアを開けると
「――あ、おかえりなさい」
 何故かほっとした顔の朝倉が、ベットの上に座っていた。
「まだ、寝てなかったのか」
 買って来たのは朝食だし、別に寝ててくれても良かったんだが。
「だって、あたしの買い物も頼んだ訳だし……それにいつもよりずいぶん遅かったから、何か
あったんじゃないかって心配で」
「へいへい、心配掛けて悪かったよ」
 ……さて、コンビニで長門と会って、マンションまで送ってたから遅くなった事を朝倉に言
ってもいいんだろうか。
 別に言ってもいい様な気もするが、言った所でただ単に朝倉を怯えさせるだけにしかならな
いかもしれない。
「どうかしたの?」
 まあいいか。
「何でもない。それよりこれ、お前に頼まれてた分だ」
 ――俺は、その日長門と会った事を朝倉に言わない事にした。





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