獣は知恵の実を食べ、人間となった。 記憶の石というものが、その世界には存在した。 一見も何も、見た目はただの石ころと変わらない。 手に持って、360度見回してもそれはただの石にしか見えなかった。 だが、記憶の石には文字通り、記憶する力があった。 自立した意識があるわけではないが、 それは日々変化する周りの風景、気温、湿度、天候、環境の全てを逐一、知識として保存していた。 そして、今ある河原に一つの石ころがある。凹凸と所々の汚れが目立つ石であった。 河原の上流には山があり、そこはかつて活火山だった。 詳しく起源をたどればその山が遥か古に溶岩を流し、この地の土台を生んだことが解かっただろう。 山は世界が生まれた日を知る、原初の存在だった。そして、その石は太鼓の溶岩から生まれた、記憶の石であった。 恐らく最古の記憶の石であろう。 何千万年という時間に耐え、幾万の日々をその身に刻み、覚えている。 石は何も語らないが、全てを知っていた。人類がどうやって生まれたのか、原初の頃、世界の地盤はどうなっていたか。 この世に初め、大陸は一つしかなかったことや神々が真に起こした奇跡のことなど。 もし、人類がこの石の存在に気づき、何らかの手段でそれらの記憶をアウトプットすることに成功したならば、 計り知れない知識が得られただろう。この世の全ての謎がほぼ解明するといってもいいほどの知識が。 だが、人は記憶の石と普通の石の見分け方を知らなかった。それどころか、記憶の石が存在すること自体、知りえなかったのだ。 知恵を持つ人間たちは、自分たちの目しか信じず、自分たちの記憶以外に、このに記憶ができる媒体は無いと思い込んだ。 それを傲慢ととることも出来るが、石の見分けの付け方もまた容易ではなかったのも事実である。 構造自体は全く同じなのだ。質量も、体積も。唯一違うのは、傷が付きやすく壊れやすいということだけ。 その時代の人間たちが石の存在に気づかなかったのも無理は無い。 河原の長老石は、今日も何も言わず、ただ記憶するだけである。 そこに、一人の人間族の子供が遊びにやってきた。 子供は石を河に投げ込むという原始的な遊びを始めた。 次から次へ、石は河原に投げ込まれる。長老石はただ記憶を続けるだけである。 少年が投げた石の中には同胞の姿もあった。 やがて、少年の手が長老石へと伸びる。流石に水中に放り込まれただけで壊れるほど、彼らは脆くは無い。 今度は水中から世界を観測することになる長老石のはずだったが、予期せぬことが起きた。 少年が石をぐっと掴んで、大きく投げる動作に入った時。 声がした。少年の母親らしきものの姿が後方にあった。 少年は驚き、長老石を地面に落とした。 そのとき、太古から今まで、多くの傷と記憶に耐えていた長老石の体に限界がきた。 地面の石ころたちとぶつかり、石は真二つに砕けた。 少年は一瞬だけ、あ、と顔を驚かせたが母親が呼ぶので気にせず自分の家へと帰っていた。 二つに割れた長老石は、ただの石ころとなった。